どうもレイが挑発的である。
喧嘩を売りにきている、という意味ではない。
彼はそのような子どもっぽい性格ではない。気に入らないことがあれば意見をはっきり述べるし、見切りをつければさっさとどこかへ去って行く。これが金李という少年だ。
いや、だからそういう話じゃないんだ。
「ジン!どこ向いてる」
明後日を向いていた俺を咎めるように、顎の下から声が飛んでくる。
今日は、居間でレポートの草案に煮詰まっていたらレイがやってきて、そのまま俺のあぐらにのっそりと上がってきて居座っていた。
夏。ぴったりとくっつけられた小さな背中。触れあっている場所がいやに熱い。
こちらのことなどお構いなしの仔虎ちゃんは、真っ白いノートの上に勝手に広げた雑誌を指でぴっぴと叩いて俺を急かす。
「え、ああうん。何だっけ?」
「だから、あんたはどれが好みなんだと聞いている」
ここで俺は初めて雑誌に目をやった。ちっとも埋まらないノートの上に重ねられた、中綴じの分厚くて嵩張る冊子。ちらつく袋とじカラー。開封済み。
どこで拾ってきたのか、まごうことなき青年誌だった。
そしてレイが無垢な指先で示しているグラビアページには「あつまれチャイナっ娘!たわわな特盛り桃娘特集♡」のでかでかとした文字。やたらとペラッペラで布面積の少ない服を身につけたモデルが、曲線美を発揮してポーズを決めている。辛うじて襟がチャイナ風なだけで、その服はほぼほぼランジェリーである。
「わーーーーっ!?」
思わずレイの手ごと、グラビア部分を手の平で覆い隠してしまった。ぎりぎり全年齢の雑誌ごとき、こちらは決して、少しも、特に恥ずかしがるような歳ではないが、レイの目には明らかに悪い。
だがレイはたやすく俺の腕を払いのけ、しれっとページを捲る。
「この黒い服がいいか?それとも、こっちの赤いのか」
こちらの動揺など知らぬ顔で、レイは淡々と、しかし熱心に尋ね続ける。答えを得るまで決して動かぬ構えだ。だがこの状況、いったいどうしろというのか。
答えに窮している俺に焦れたレイは、その背をより一層密着させてきた。俺の胸と腹に、まだまだ薄い背中をぴったり寄せてくる。そして、ジーンズ越しの俺の股ぐらの上に、小さい尻でぎゅぎゅっとのしかかってきた。
「ジン。早く、答えろ?」
そのまま揺さぶるように、ゆさっ、ゆさっ、と身じろぎを続ける奔放な猫。案外と高い声が、揶揄いを含んで甘い。
くそ。
わざとだ。明確な意思をもって、その動きをを繰り返している。
なぜ断言できるか?それは、このようないたずらが、今日に限った話ではないからだ。
口の内側の柔らかいところを噛んでぐっと堪えながら、俺は反芻する。
最近、レイが挑発的である。
露骨に、俺の男に揺さぶりをかけまくってくる。いやまあ、レイなりにかけている、と言うのが正しい。この通り、仕草はどうしようもなく拙いものだ。が、男というやつは直球ストレートがよく効く。欲求に忠実な性格のレイは、そこらへんよくわかっている。さすがだ、レイ。
「ジン」
うんうん唸る俺にしびれを切らしたレイが、俺の左腕をぎゅっと抱き込んできた。その気になれば一瞬でへし折りさえできる力強さを微塵も出さず、仔猫がじゃれつくようにきゅむきゅむと、だがいたずらに肢体を絡めてくる。
「ジンは、何色の服が好きなんだ」
服というか下着だろ!と言い返すとよけいな方向に発展するおそれがある。ワンチャン、レイは本気でこれらのランジェリーについて、日本で流行ってる一般的な服だと思って聞いている可能性もある。俺は蜘蛛の糸より細いその可能性にかけて、適当に開いたページを指してこれかな、と返事をしておいた。レイは「そうか」と一言だけ呟いて、俺の手の甲の浮いた血管を、かりかりと引っ掻いてきた。あーいけません。やめて本当。
このように仕掛けられている原因はわからない。
ただ、俺は、年上として、誘われるままにがっつくわけにはいかない。何度も肌を重ねているし、コミュニケーションとして普通に事に及ぶ、そういう間柄だとしてもだ。
今週はBBAの試合が続く。故郷から丸二日かけて遠征して、なおかつ慣れない土地で長く滞在するレイに無茶は絶対にさせられない。本人は顔にも態度にも一切出さないし自覚も無いのかもしれないが、負担が少ないわけがないんだ。
俺たちが邂逅するのは、俺がレイの故郷へ赴く以外には大会期間中がほとんどだ。だから毎回、このへんの理由はよーく言い含めて、夜の方面でやんちゃさせないようにしている。たいそうご不満そうなのも毎度のことだがわかってほしい。
気持ちはわかる。試合後の興奮が抑えきれないのも、同じ立場だから痛いほど理解している。俺だって、これでもシニア日本代表の男なんだ。
レイのこと、大事にしたい。だって――。
俺は自分の頬をべちっと引っぱたいて意識を切り替えた。思考に耽りすぎるのは悪い癖だ。
ちらちらと俺の様子を伺っていたレイの頭をひと撫でする。見上げてくる目線は、そっけないふうに見える表情と比べて雄弁で、ひどくかわいらしい。
何かを期待するまなざしを受けて、俺は――レイの頭の上に顎をのっけてそのままがっちゃんがっちゃん歯を噛み鳴らした。
途端に膝の上から飛び退く仔虎ちゃん。この振動嫌いだもんな、知ってる。ごめんなー。
唸るレイに、先に水原さんちに行ってるように指示する。これはカントク命令である。あとで練習の相手してあげるから、と言うと少しだけ機嫌を持ち直して大人しく玄関に向かってくれた。最後に「おぼえてろよ」と一言呟かれた気がするが、とりあえずの危機を乗り切れて安堵した俺はすぐに忘れてしまった。
大人づらしてるけど、結構いっぱいいっぱいなんである。
深く息を吐(つ)いて、放っておかれっぱなしの雑誌を乱雑に閉じる。
決して、理性を手放すなどあってはならないんだ。俺は。
大会日程は順調に過ぎていった。
この期間、俺は殺人的スケジュールに揉まれていた。カントク役、自身の試合、その合間に研究課題とフィードワーク準備の期日が全て重なっており、先ほどようやっと一息つけたところである。明日の夜からシニア部門開催。最終日にジュニアをはじめ全部門の決勝戦。その前に提出物を終わらせた俺はえらい。やることはまだ残っているが、ストレスで死にそうだから今は何も考えないことにした。明日の自分に任せたい。
ストレッチをしてベッドに倒れ込む。
部屋の照明は最低限でうす暗い。BBAの付き添いは会長とおじいさんに引き継いで、俺はBBAと別棟に部屋をとらせてもらったのでとても静かだ。
大の字になって何もする気がない。違う、ただ気持ちをやり過ごしている。
こんなふうに忙しさがピークだったりすると、この静けさにすら苛立ちを覚えることがある。大会の合間は気持ちが猛って、フラストレーションを持て余すからこうなる。こんなに自分をコントロールできなくなるってこと、つい数年前まで自覚はまるでなかった。
大人になるって、聡くなるけど嫌だなってこういう時に思う。大人げなさをことあるごとに突きつけられるから。俺は弟たちに遠慮無く頼ってほしいし、いつでも強くて優しい男でいたいんだ。
そんなことをつらつら思う。これもやはり、荒ぶる気持ちを分散させるための上っ面な思考に過ぎないんだけど。
その静寂にドアのノックが響いた。
何の足音も気配も感じられなかった。俺は一息吐いてからドアに向かった。スコープで確認するまでもなく、ドアを開ける。
「ジン」
案の定、レイが立っていた。どうした、とは聞かない。ただ、あまり構ってやれないことを考えて、一瞬、部屋に招き入れるのを躊躇った。
否。気が立っている自分を見られたくないのだ。レイは、俺のことを大人だと思っている。その期待を裏切りたくない、安いプライドからだった。
そんな拙い考えはさっさと打ち払い、レイを部屋に通す。レイはコンビニの袋を提げている。わざわざ別棟の俺のところまで、差し入れにきてくれたんだろう。
レイはさくさくと部屋の真ん中まで進むと、備え付けのテーブルの上にドン!と袋を置いた。音から察するに相当量の食べ物と飲み物が入っているらしい。
「ジン、夕飯がかんたんだった。会長たちが心配していた」
なるほど。おじいさんも大転寺会長も、俺が若い男だからと何かと食わせたがる。レイが俺のところに顔を出すと知って、持たせてくれたのだろう。ありがたいことだ。
それからレイは俺の方をじっと見て、おもむろに歩み寄ってきた。そして俺の手を引っ張ったかと思うと、強制的にベッドに座らせた。
「何かあたたかいものを飲んだほうがいい」
と言って電気ポットにお湯を沸かし始めた。
「しまった。俺そんなに疲れた顔してたか」
思わず声に出してしまった。レイは黙って頷く。そしてちょっと考えたあと、お茶のティーバッグをひとつだけ取り出した。
「なんだ、すぐ戻るのか」
「ジンは、仕事がたくさんあると聞いた」
奔放なようで、こんないじらしいことを言う。俺はレイを隣に呼び寄せると、今日すぐの用はもう無いと伝える。
「ちょうど終わったタイミングだったんだ。来てくれてありがたいよ。しばらくいてくれないか」
ストレスで鬱々苛々していたことなど棚に放り上げだ。実際、レイが来なくてはそのままふて寝してただろうし本当に助かった。
レイはふーん、みたいな素っ気ない態度でいたが、俺の言葉が本心だと理解して、ちょこっと肩をくっつけてきた。
男とは実に単純な生き物である。このささやかな接触のぬくもりだけでライフが1000くらい回復した気がする。レイはゲームなどしないのでこの例えが通じないのがもどかしい。相変わらず、頭はぜんぜん働かないんだけど。
今日が大会日程の中日なのが悔やまれる。最終日だったら、このまま泊まっていかないか誘ったところだったのに。フラストレーションで死にそうなところへこんなかわいい猫ちゃんに来られて我慢できるかという話だ。レイは俺よりだいぶやんちゃなので夜に来るときはいつもその気なのだが、今日は絶対だめだ。俺は大人なので、少なくともレイの負担になりそうなことは絶対にするわけにいかない。と固く誓っている。
レイは俺が度々ストップをかけることにご不満なわけだが――本人は、とあることを知らないままでいる。だから毎度やっても構わないぐらいのオープンさでいるのだが……いつか話そうと思っている。いつかは。
レイには悪いが、今日はお茶飲んだら解散だな。と決意を新たにしたところで、レイが俺の手をにぎにぎして遊んでいるのに気が付いた。
「ジン、いつもより手がガサガサ」
「え、本当か」
「顔も青い。精神的に、疲れている相だ」
いかん。心配かけしまうな――その懸念をよそに、レイは、俺の手の甲の血管をかり、かり、と意味深に引っ掻きはじめた。
「……レイさん。今日はいけません」
「なんだ。元気にしてやるぞ」
「いや一部分は元気になるかもだけど、そうじゃなくてね」
「体力に自信ないのか?シニア日本代表になった男が?」
「煽っても効きません~」
「おれのこと嫌いなのか」
「ぐ。その言い方ずるい……」
あー言えばこう言うでさんざんっぱら煽りたててくる。疲労困憊で容量不足の頭に甘くて食欲をそそられる声が染み入ってきて、理性を引っぺがそうとしてくる。あまりに無邪気だ。人の――大人の気など、露ほども知らずに。
「大会の合間だろ?俺はともかく、レイに負担がかかるって言ってるんだ。今日は早く寝なさい!」
レイの肩を掴んでそう説得した。しかし、これにレイはカチンときたようだ。俺も言ってから気が付いた、レイは俺から子供扱いされるのがたいそう嫌いなことに。
「ジン、あんたはおれをずっと子ども扱いしているな」
レイは俺をベッドにころがすと膝の上に馬乗りになった。まずい。強硬手段だろうか。いやレイに限ってそんなことはありえない。
あーー正直このまま眠ってしまいたい。予想以上に自分に余裕がない。下手な醜態を晒す前に、ガキな自分を露呈する前に、優しい俺でいられるうちに。
力尽くでどかすか。一瞬の迷いの間に――事態がとんでもない方向に行った。
「これでどうだ?」
レイは自分の服を勢いよくはだけた。民族衣装の下、いつもは素肌のそこに、真っ白なレースが纏われていた。隙間だらけの胸元には細かくリボンがあしらってある。つまり直球でいかがわしいランジェリーだ。襟だけがかろうじてチャイナ風で妙なマニアックさがある。
いつかどこかで見たようなそれ。安いナイロン製の白さが、灰色のホテルの一室で異様な輝きを放っている。
口を開けたまま硬直する俺にレイが得意げに言い放つ。
「ジン、前にこれが良いと言った」
俺が? 嘘だ。いやレイは嘘などつかないが、こんな破廉恥な――
その時死にかけの俺の脳細胞に鮮烈な文字列が浮かび上がった。
「”あつまれチャイナっ娘!たわわな特盛り桃娘特集♡”!!!???」
「よく覚えているな。どれが良いと聞いたら、あんたがこれを指さしたから似たようなの買ってきた」
「どこで!?」
「普通に●ンキ」
「なんてこった……」
動揺する俺のことなどお構いなしに、レイはすっかり上半身をあらわにしてしまった。帯で留まるので腰までしか見えないが、布面積が少なすぎて下着としてすら機能が果たせていないのはわかる。当然だ。そういう役割ではないのだから。
胸の大事なところはスリーブ状になっているし、背中はがば開きなのだろう。そして胸から下を覆い隠しているであろう布は透けている。これを、あの、レイが。
「日本では変わった服が流行っているものだと思ったが」
レイは横たわる俺の上半身に手をついて、距離を詰めてきた。
「あの本には、これで男は一発で元気になると書かれていた。俺はよくわからないが、ジンはどうだ?」
あんたが選んだ服だぞ?と覗き込んでくるレイ。胸の上に耳をぴたっとくっつけて楽しそうに俺の心臓の音を聞いている。シャツのボタンを外す外さないでさ迷っている指の仕草。押し付けられる白い胸元の滑らかさ。つま先で俺のジーンズをちょこちょこといじっている。いまの彼にできる最大限の煽りがこれだ。
「おれのこと、子ども扱いするな。ジン」
無邪気な声だった。
夜の誘いをしてきているのにもかかわらず、ところどころ、何もわかっちゃいないんだ。
纏っているレースの服の用途は何となく理解していても、それを着ているお前がどれほど俺の劣情を煽りたててくるのか。俺がさっきからずっと、お前に強引に伸ばせる手をどれほど我慢しているのか。俺が普段からどれほど大人でいたいと思っているのか。それは何故か。
枷など無視した若いただの男は、いったいお前にどんなことを強いてしまうのか。
何もわかっていない。大事にしたいのに。
レイはわかっていない。度々ともに過ごす短い夜は、本当はもっとずっと、長いのだということを。
上に乗っているレイの背中に腕を回す。熱い素肌だった。勢いよく起き上がりながら、片腕で身体をベッドに放り投げた。立場が逆転して、俺がレイに覆いかぶさる。
ただし、体格は俺の方がはるかに上だ。天井からの照明をすっかり遮り逆光になっているだろう俺の姿は、レイからどのように見えているのか。
「わかったよ。レイ」
努めて優しい声にしたつもりだった。怖がらせたいわけじゃないから。だが驚くほど低い音が出てしまった。ごまかすように指でまるい頬を撫ぜるとレイの唇が震えた。
「ジン……?」
ポットの湯はとっくに沸いていて静かだ。
黒々とした部屋に、酷いスプリングの軋みが響き渡った。
「もう、子供扱いはしないからな」
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